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私の早稲田 私の立川稲門会

 私は、早稲田大学が大好きです。自宅が、下駄で歩いて10分くらいの所で、まかない付きの下宿屋をしており、早稲田の学生ばかりでした。受験は、早稲田一本で、一浪して、昭和35年第一文学部ロシア文学科に入り、昭和39年に卒業しました。大濱信泉総長のもと、そうそうたる名物教授に学びました。入学した年は、岸内閣による新安保条約調印で、歴史的な反対運動でした。連日デモが行われ、東大女子学生樺美智子さんが、国会前で犠牲になりました。文学部では、前期ほとんど授業が行われませんでした。秋には、球史に残る早慶六連戦で勝利し、歓喜にわきました。2年生から、戸山キャンパスの近代的な校舎に移転でした。

市川染五郎、北大路欣也らが下駄と角帽子で登校していたり、吉永小百合が文学部の名物、長いスロープを歩いておりました。

 

 砂川昌平立川稲門会2代会長の告別式で、告別式で、校旗のもと、校歌を心をこめて歌ったこと、忘れられません。鈴春の社長鈴木健一3代会長の推挙で役員にしていただき、現在に至ります。125周年記念の大学への寄金を鴛海量良(おしうみかずよし)5代会長のもと、立派に果たしました。

 

 志村順子6代会長、副会長鈴木一廣・広瀬俊夫、幹事長小林章子、意欲的な役員体制で、会員を増やし(特に女性会員)、数多くの楽しいイベント、錦織さんの広報活動などで、会員が大変楽しんで下さいました。

 

 83歳になり、五木寛之さんの「下り坂の人生」を、じっくり歩いております。企業・団体の「人材開発・育成コンサルタント」として、71歳まで働きました。その少し前、先輩の鈴木茂夫さんのお誘いで、立川市の生涯学習に、ボランティアで参加し

10年余り、真剣に楽しく活動させていただきました。

 

 禅を世界に広めた、仏教哲学者鈴木大拙(1870~1966)年の言葉に、「歳をとらねばわからないことがある」とあります。確かに80歳過ぎから、世の中の出来事、生老病死などについて、深く考えたり、気づくことが多くなりました。今でも、いくつかの委員会、サークル、ボランティアなどで社会に関わっております。高齢化時代と強く言われながら、高齢者の参加が大変少なく

(特に男性)残念です。80代の高齢者として、少しはお役に立つこともあり、喜んでいただけ、ありがたいことと感謝し、「人生二度なし」と過ごしております。

 (広瀬俊夫)