年頭によせて
鈴木茂夫
あけましておめでとうございます。2026年・ 令和8年が明けました。
みな様に今年がより良い年でありますように。
年頭にあたり、心に浮かぶことを、取り留めも無く述べてみます。
昔の昔(1868-1945)。日本には4つの国家の祭典「4大節」がありました。
四方拝(新年節) 天皇が四方の神に礼拝。平安を祈る
紀元節 2月11日 神武天皇が日本の建国を宣言した日
天長節 4月29日 天皇誕生日。この日付は昭和天皇の。
明治節 11月3日 明治天皇の誕生日。
「4大節」にはそれぞれ唱歌があり、小学校では生徒が斉唱しました。ですから、当時の日本国民なら誰もが知っていました。
思い出したのは、この中の四方拝(新年節)です。1月1日の早朝、皇居の宮中3殿の西側にある神嘉殿(しんかでん)の南庭(なんてい)で、天皇は国家の祭祀者として、天照大神をはじめとする天地四方の神々を遙拝し、一年の安寧と豊穣を祈願します。(これは大切な皇室行事の一つとして、現在も行なわれています。)
小学唱歌のその1(1年生むけ)に、「1月1日」があります。
小学校では冬休み明けの始業式に「新年節」の式典を行い斉唱します。」
たいてい、それは始業式と新年節一体として行われるので、始業式として記憶されます。
式次第
年頭訓示(校長の訓話)
宮城遥拝(天皇のいる皇居に向かって拝礼)
「1月1日」の斉唱
教育勅語奉読
唱歌「1月1日」の歌詞
年の始めの 例(ためし)とて
終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)う今日こそ 楽しけれ
初日(はつひ)の光 さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに 比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ
この歌は明治26年(1893年)、島根県出雲大社の宮司を務めた千家尊福(せんげたかとみ)が作詞し、東京音楽学校教授上真行(うえさねみち)が作曲しました。「四方拝」を念頭にして、のどかな正月に「終わりなき世のめてたさ」を歌い上げています。
わたくしは、ここがこの歌の勘所ではないかと思っています。
めでたさを歌い上げているのは、わたくしたちです。そのわたくしたちには、終りがあります。わたくしたちに終わりがあるからこそ、限りなきこの世はめでたいのです。
だからこそ年の初めは、ひときわ楽しいのです。
もちろん、そんな小難しいではなく、元旦を単なる一年の始まりだからと考えてみても、一向に差し支えはありません。
わたくしは少し深読みしすぎているのでしょうか。 そう考えていただいても構いません。ですがこの世の時の流れは無限です。この世に生きるわたくしたちは、限られた時を生きます。繰り返しになりますが、この歌は,終わりなき世の時の流れの中で、のどかな正月の「今」のめでたさを歌っていることは確かです。私たちが生きていられるのは、次々に流れ来て、瞬時にながれさる「今」があるからこそです。わたくしたちは、悦びも悲しみも苦しみもすべては「今」に感じるのです。
流れ去った「今」は「過去」に転じます。「過去」は、わたくしたちが思い起こすものです。2度と帰っては来ない「今」だからこそ大切なのではないでしょうか。ですから「祝(いお)う今日こそ 楽しけれ」と歌う心には躍動があります。 終わりある身ならではの愉しさがあるのではないでしょうか。
わたくしが若い頃、こんなようには思っていませんでした。わたくしにはまだ流れては来ない「今」、つまり輝く「未来」があると考えていたからです。しかし、「今」は流れ去ります。終わりある身ですから、わたくしに流れてくる「今」が残り少なくなっていると
感じます。それ故、この歌をひときわ「楽しい」と思うのです。
どうやらこれは紛れもない老人のぼやきです。わたくしは「年の始めの 例(ためし)とて」とハミングしながら、まもなく95歳の春を迎えます。
